詩編42篇2節
Psa42:2
私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。
いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。
צָמְאָה נַפְשִׁי לֵאלֹהִים לְאֵל חָי מָתַי אָבוֹא וְאֵרָאֶה פְּנֵי אֱלֹהִים:
読み方…
★ツァームアー ナフシー レエローヒーム レエル ハーイ
マータイ アーヴォー ヴェエラーエ ペネー エローヒーム:
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今回は、42篇2節より、
『渇く』という語彙を調べてみました。
「渇く」=『צָמֵא』ツァーメーは、
QAL形(基本形の意)の動詞で、2節では
『צָמְאָה』ツァームアー=完了形、
3人称単数、女性形に変化しています。
まずは、詩篇はどういう書なのでしょうか。。。
詩篇はとても難しいと感じました💦
これまで調べて分かったことは…
*マスキールという、13の詩篇の表題として出てきます。
詩編32、42、43、44、45、
52,53,54,55、74,78、88,89.142編
の13が、マスキールでした。
意味は不明、とありましたがあとで少し説明しますね。
そして『教訓詩』という説もあります。
*42∼43篇は、元々一つの詩であったと思われます。
*神への渇望をうたった詩であるということ。
*43篇は42篇の続きで、神の導きを求める詩です。
*そして、42:5, 11, 43:5は、反復句で、
同じ言葉を繰り返しています。
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先程マスキールは意味不明、とかきましたが、
単語を辞典で調べてみました。
『מַשְׂכִּיל』=マスキールは『שָׂכַל』=サーハルというQAL形のヒフィル態で、
「悟らせる、悟る、賢くする、思慮がある、栄える」などの意味があり、
マスキールは、分詞、単数、男性形です。
*ここで更に、QAL形とかヒフィル態とは何ぞや?という
疑問が出ると思われますよね。
動詞は、動作や状態を表しますが、
その行為をどの視点で見るかを区別することを
『態』と言い、ヘブル語の「態」は
「7種類」あります。
この「7」という完全数が、
神様の御旨をおもわされ。。。✨
その7つの内のひとつがヒフィル態で、
使役動詞(~させる)という、
「能動」…行為を行う視点「~する、~させる」を
表す時に使われるようです。
そして…
『מַשְׂכִּיל』「マスキール」の意味は
「教訓」?であろうかと思われ。。。
神を賛美する者たちを指導し、指揮する意味がある。
との説もありました。
『教訓』という意味でしょうか。。。?
何故ならば、詩篇は、
神殿の礼拝における賛美のために作られたものですが、
賛美を導く人々に「コラの子たち」がいました。
レビ族のケハテ氏族の一人コラの子孫です。
コラについては(民数記16章)に書かれています。
ざっくり説明しますと、
コラは、アロンとモーセに反逆し、生きたまま地の中、
陰府に落とされた人が「コラ」です💦
『神の憐れみ』によって、その子孫で
残された者たちがいました。
そして、ダビデの時代には、
礼拝賛美を導く奉仕者となりました。
42編を読んでいて、コラの子孫が先祖から学んだ「教訓」とは、
神を崇め、求め、従う心だったのかもしれない、
と思ったのです。
コラの子孫は
神に立ち帰ったのではないでしょうか・・・✨💕
そして4節に…
昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。
人は絶え間なく言う
「お前の神はどこにいる」と。
★モーセたちに反逆したコラの裁きは厳しいものでした。
そこから導き出るものも、このツァームアー
「渇く」に繋がるの”かも”しれません。
そして『צָמְאָה』ツァームアー=渇くについてですが、
悲しいかなまだ詳細がつかめておらず、
このあとも調べたいと思っています。
文法的には、先ほどお話した通りですね。
そして、他の箇所でどこに使われているのか、
見てみますと、
詩篇63:1
神よ。あなたは私の神。
私はあなたを切に求めます。
水のない、砂漠の衰え果てた地で、
私のたましいは、あなたに「渇き」、
私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。
【新共同訳】では…
63:2
神よ、あなたはわたしの神。
わたしはあなたを捜し求め
わたしの魂はあなたを「渇き求め」ます。
あなたを待って、わたしのからだは
乾ききった大地のように衰え
水のない地のように渇き果てています。
同じ語彙『צָמְאָה』ツァームアーが使われているのは、
ここ一ヶ所でした。
「のどが渇く」や「地が渇く」という意味で出てきたものは、
10カ所ありました。
心の飢え渇き、という意味での
『צָמְאָה』ツァームアー=渇くという箇所が
2箇所ということに少しビックリです。。。
今回、詩篇42編、43編は
「神への渇望を歌った詩」ということが
分かりました✨
勿論、イェシュアに対しての渇望なのです❣
私たちも、一人一人が神様への心の渇きを持ち続け、
日々主に渇望し、
慕い求める必要があるのではないでしょうか💕
その為には神の言葉である、聖書の御言葉を学び、
正しく理解すること、そして
神様のご計画を知ることなのでしょう。
何故なら、
ヨハネ1:1∼2
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。
ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
からです。
神様は、私たちが「渇き」を覚えることを喜ばれます。
参照聖句
一サム15:22
「サムエルは言った。
「主が喜ばれるのは、
焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。
むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。
見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、
耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」
新共同訳
詩篇147:11
『主が望まれるのは主を畏れる人
主の慈しみを待ち望む人。』
新共同訳
箴言21:3
『神に従い正義を行うことは
いけにえをささげるよりも
主に喜ばれる。』
新共同訳
エフェ 5:10
『何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。』
モーセの律法が無効になった今
〔テテレスタイ=代価は支払われた〕ルカ19:30、
キリストの律法に聞き従うことが、
私たち異邦人信者の信仰であり、
『信仰による行い』ですね。(ヤコブ2:17)
そして信仰の目的は、
『神の栄光をあらわすこと』
でもあると思います。
おひとりおひとりの飢え渇きから始まると思います。
主が喜ばれることは「渇いて」主を求め、
御言葉を足の灯とし、
日々の信仰生活の糧のために、
霊的に成長することなのだと思います。
そのことが理解できたことを心から感謝しています。
【新共同訳】
詩 42:5∼6
わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす
喜び歌い感謝をささげる声の中を
祭りに集う人の群れと共に進み、
神の家に入り、ひれ伏したことを。
なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
なぜ呻くのか。
神を待ち望め。
わたしはなお、告白しよう
「御顔こそ、わたしの救い」と。
『צָמְאָה』ツァームアーとは、
『יֵשׁוּעַ』イェシュアへ近づく
一番の近道なの”かも”しれません✨📖
あとがき:
昨年の一年間は、聖書の学びと、
ヘブル語の学びがほぼ生活を占めていたと言えるほど集中し、
ひたすら御言葉を求めていました。
その都度、飢え渇き、主の言われること、
ご命令、ご計画を知りたいという思いでいっぱいの一年間でした。
今年もさらに慕い求めていきたい、と思いますので
どうぞよろしくお願い致します❣
まさに
「私のたましいは、神を、
生ける神を求めて渇いて」
います!
私自身というより、
私の内の御霊によるものなのでしょう✨